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閉じられたその瞳に映すのは
俺じゃなくて、別の人――――。
でも、いいんだ。
キミが俺を見てくれない分
俺がずっと、傍で、見ていればいいのだから
「お待たせしましたっ!先輩!」
テニスコートの出入り口のとこでぼうっと立っていたはその声を聞いてゆっくりと顔を上げた。
目の前には全速力で走ってきたのか、肩で呼吸をしながらこちらを見て笑っている切原赤也の姿があった。
「お疲れ様、赤也くん。全然待ってないから気にしなくてもいいよ?」
「先輩・・・」
「帰ろっか」
そう言い、赤也の手に自分の手を絡ませると照れたように笑う。
そんなを見て少し頬を赤らめると、赤也は小さく頷いた。
と赤也は恋人同士。付き合い始めて2週間というまだまだ初々しいカップルである。
周りから見ても2人はお互いの事を大切に想いあっている事が分かる。
中学生らしいとても微笑ましい光景だった。
「先輩、明日暇っすか?」
「え、うん。どうしたの?」
「その・・・久しぶりにどっか行きませんか?・・・・二人で」
語尾の方は小さくて聞き取れないくらいだったが、近くにいたにはきちんと届いていた。
繋がれた手が少し強く握られて、ははっとしたように赤也を見上げ、自分からも強く握り返した。
「うんっ・・!楽しみにしてるね、明日」
「・・・ういっす!」
から承諾を得られた事が嬉しかったのか、赤也は本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔を見てにも自然と笑みが浮かぶ。
だけど、と赤也には一つだけ抱えている問題があった。
「そ、の・・・丸井先輩の事なんすけど・・・・」
「っ!」
丸井先輩。その単語を聞いての身体はびくりと跳ねた。
何かを恐れているのかのように縮こまり、今よりももっと強く手を握り返してくる。
赤也は歩めていた足を止めると、をぎゅっと抱きしめた。
それに応えるようもまた、赤也の背中に腕を回す。
「今日も、大丈夫でしたから・・・いつもの、丸井先輩だったっす」
「うん・・・」
「きっともう先輩の事なんとも思ってないっすよ」
「うん・・っ」
ぎゅうとしがみ付いてくる様に腕に力をこめて、身を寄せるに赤也も腕に力を込める。
何故こんなにもが怯えているのか。
それは、が赤也と付き合い始める前の事がきっかけである。
丸井はの前の彼氏だった。
ただそれだけなら何もここまで怯える事は無い。
問題だったのは、丸井が異常なまでにに執着していた事にあった。
丸井の彼女であったは今と同じように、丸井を待つため、テニスコートの外でよく部活が終わるのを待っていた。
赤也は毎日毎日テニスコートの外でこちらを眺めているの事が気になり始め、二人は知り合うようになる。
二人が恋に落ちるのは意外にも早かった。
周りの女の子達と仲良く会話をして彼女であるを蔑ろにしていた丸井。
の事が気になって毎日部活が終わるとに話しかけてくる赤也。
丸井との距離を感じ始めていた時に、自分に好意を持って話しかけてくれる赤也に心を許していく。
赤也とがくっついたのはもはや自然の流れだったのかもしれない。
丸井の中に自分の存在がいない。そして、自分の中で抑えきれない程に大きな存在になっている赤也。
は丸井との関係に区切りをつけるために、ある日、誰もいない放課後の教室に、丸井を呼び出した。
その日から、今まで平凡だった日常生活が、狂い、始めた―――――。
「どうしたんだよ、こんな所に呼び出して」
いつもと変わらない丸井。お気に入りであるガムで風船を作りながら、目の前のを見下ろしていた。
なんと言っていいのか分からない。だけど、丸井との関係にけじめをつけたかったは意を決して口を開いた。
「あの・・っ、わ、私・・・・丸井くんと・・・」
「なんだよ?」
「わ、別れたい・・・・」
「・・・・」
色が白くなってしまうほどにぎゅっと握りしめた自分の手を見ながらは言った。
そのとき、どんな顔で丸井がを見ていたのか。俯いていたには知らない。
二人の間に微妙な空気が生まれる。
お互いに無言で、グラウンドの方から聞こえる野球部の声や、違う教室から聞こえてくる吹奏楽部の音楽が聞こえてくる音以外、とても静かだった。
の心臓はばくばくと早いリズムを刻んでいて、緊張のせいで息がとまりそうなくらい苦しい。
暫くの沈黙のあと、静寂を破ったのは丸井の一声だった。
「いいぜぃ」
「・・・!」
その声にはっとしたように今まで俯いていた顔をはあげる。
そして、丸井と目があったとき、今度こそ本当に息がとまったかと思った。
自分を見下ろすその瞳には、暗くどんよりとした何かを秘めた色をしていた。
何故だかは分からない。だけど、怖い。怖い。怖い。
本能が危険だと教えるように、の頭にがんがんと鈍い痛みを伝えてくる。
「――っ」
「の頼みだから、別れてやるよ。他の誰でもないの頼みだから」
「・・ぁっ・・・」
「だけど、これだけは覚えてて欲しい」
から目を逸らさず丸井はじっと見つめ、やがて、ぐにゃりと口元を歪めた。
「がどれだけ俺から離れても、遠くへ行っても、誰かの元にいっても、俺はいつでも傍にいるから」
「え・・っ?」
「ずっと、ずっと、だけを見てる。ずっと、ずっと――――」
「ズット、ズットナ――――」
それからの事は今でもおぼろげにしか思い出せない。
はどうやって、あの場からいなくなったのか。
どうやって
あの丸井から逃げたのか―――。
「先輩・・・?」
「・・っ!」
黙り込んでしまったを心配そうに声をかける赤也の声にはっとして顔をあげる。
は赤也を見つめると心配させないように、にこりと微笑んだ。
「やっぱり、丸井先輩の事・・・」
「ち、違うのっ。私が好きなのは赤也くんだよっ」
それを証明するかのように、背伸びをして、ほんの少しだけど唇を重ね合わせた。
不意打ちだったせいもあり赤也は頬を真っ赤にさせて目を丸くさせたが、嬉しそうに目を細め、自分からもに唇を重ねた。
「俺も・・・先輩の事好きっス・・・」
「・・ありがと・・っ」
お互いに照れて、顔を真っ赤にさせて笑い合った。
赤也くんには心配をさせたくない。
今でも丸井の事を気にして、自分の事にも気にかけてくれて、本当に申し訳なく思ったは心の中で呟いた。
「それじゃ、また明日っ」
「ういっス!」
家まで送ってくれた赤也にお礼を述べて手を振る。
に見送られてぺこりと頭をさげると、赤也は自分の家への帰路につく。
だんだん小さくなっていく赤也の背中が見えなくなった頃、は自分の家に入ろうとする。
そのとき、ふと、後ろから視線を感じて振り返った。
「・・・?」
確かに自分を見る視線を感じた。
だが振り返っても人影は無い。
はなんだか嫌なざわめきを感じ、急いで家の中へと入った。
「・・・・」
そんなを見つめてる確かな人影があったことに気付かずに・・・・。
それから数日たった日の事。
赤也との関係はまずます良好で、いたって普通の生活を暮らしていただったがここ最近になってある違和感を感じ始めていた。
「・・・はぁ」
「どうしたのよ、」
前の席に座る親友が不思議そうにを見返す。
小学校から同じクラスでなにかと縁のあるこの親友は、もちろんと赤也と丸井の関係も知っていた。
浮かない顔を浮かべては溜息を繰り返す。
「もう・・・そんな溜息つかないでよ!私だってテンション下がっちゃうじゃん!」
「・・・うん・・」
「なになに?心配事ならどんと言ってよ。相談にのるからさぁ」
身を乗り出して覗き込んでくる親友の顔を見返し、は小さく頷いた。
周りをちらりと見渡し、誰もこちらを見ていないことを確認するとは親友の耳に口を寄せる。
「実は、毎晩変なことがあって」
「・・・へ?」
「寝ている時なんだけど、凄く居心地が悪いの。なんていうか・・・・誰かに見られてるような・・・」
そこまで言うと、思い出したのかは口を閉ざしてしまう。
冗談でもなさそうなの雰囲気に親友も顔をしかめる。
「ふぅむ。それは・・・気のせいとかじゃないもんねぇ?」
「私も最初はそう思ったんだけど・・・そうじゃないみたいで・・・・」
「そっか。それ、赤也くんは知ってるの?」
親友の問いには小さく首を横に振る。
「・・・・赤也くんには言わないつもり?」
「うん・・・余計な心配させたくないし・・・」
「ふぅん・・・」
が言おうとしているのはもちろん丸井の事だ。
赤也にこれ以上心配をかけたくないというの気持ちを分かっていたため、親友も特に何も言わなかった。
「そっか・・・まぁ、なんかあったらいつでも言って?ただでさえ一人暮らしで大変なんだから!力にはなりたいしさ」
「ありがと・・っ」
授業の始まりを知らせるチャイムが鳴り、この話はここで終わった。
放課後になり帰る支度をしているところに、1件のメールが届いた。
は携帯を開いて確認をする。
そこには
『先輩。今日は先に帰っててください!』
と、赤也からのメールが来ていた。
「練習忙しいのかなぁ・・・」
赤也と帰れない事に落胆しつつも、今は大会が近い時期だというのも知っている。
は素早くメールの返信を打つ。
『部活頑張ってね。それじゃあ、また明日』
メールを送信すると携帯を鞄の中へとしまいこむ。
いつもより早い帰宅に、帰ってから何をしようか考えながら教室を出る。
考え事をしていて上の空だった為、前から来ていた人物に気付かなかった。
ドンッ
「!」
「きゃっ」
勢いよく人にぶつかり、は思わずよろけた。
だが後ろに倒れることはなく、かわりに背中に回された温かいぬくもり。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて離れて、謝罪をする。
ふと顔をあげてはぶつかった人物を見て固まった。
目の前には風船ガムを膨らませた丸井ブン太がいたからだ。
「気をつけろぃ?」
「う、うん・・・」
だがブン太は普通の態度だった。その事に心の奥でほっとする。
テニスバッグを手にしている事からこれから部活に行くところだったのだろう。
邪魔してはいけないとはその場をすぐさま離れようと横を通り過ぎる。
「それじゃあ・・・」
自然と早足になりつつも、はブン太に軽く頭をさげて行く。
何事もなかったことにほっとしつつ、つきあたりの角を曲がろうとしたところで
「」
「!」
声をかけられ、思わず足をとめた。
振り向かずにそのままの体勢で次の言葉を待つ。
「またな」
それだけを言い残し、ブン太は歩いていった。
何の事に対してか分からず思わず振り返りブン太を見るが、そこにはもうブン太の姿は無かった。
「・・・なんなの・・・?」
言いようの無い不安には持っていた鞄を力強く握り締めた。
誰もいない廊下を見つめながら。
放課後の出来事が気になっては早くに帰宅しても上の空のままだった。
気を紛らわそうと雑誌を読んだり、携帯をいじったりするものの頭の中を占めるのは丸井の一言。
『またな』
いたって変わらない普通の言葉。
なのにこんなにも気になって、頭に残り、嫌な感じがするのはなんでだろう。
「はぁ・・・いいや。寝ようっと」
考えていたらきりがない。はそう区切りをつけると布団の中にもぐりこんだ。
疲れていたせいか、すぐに睡魔が襲ってくる。
電気を消すとは眠りについた。
ギィ・・・・
夜中の2時頃をまわった頃。の部屋で小さな物音がした。
扉を開けるようなそんな些細な音。だがそれも一瞬の事で、すぐに静寂が包み込む。
聞こえるのは時計の針が動く音。そして、の小さな息遣いだけ。
それが一人暮らしをするの部屋での当たり前のものなのだが
「・・・」
以外の息遣いの音も確かに存在していた。
決して存在するはずのない、人の息遣いが。
「・・・んっ・・」
その音に気付いたのかは定かではないがの体がぴくりと動く。
完全に体も脳も寝ていて、意識はほとんどおぼろげであろう。
だがそんな状態でも微かにいつも感じるという視線のようなものを背中で感じていた。
ギシッ・・・・
「んぅっ・・・」
隣でなにかが動くような気配を感じ、寝返りをうつ。
ほとんど無意識だったが、は目の前に感じる存在感にゆっくりと瞼を開けた。
その途端、目の前に広がる
ア カ
「!!!?」
驚いては目を見開く。
そんなを目を細めて見つめる。
「こんばんは―――
?」
目の前で口の端をつりあげ、目をぎらぎらとさせながら自分を見つめ返す男。
それは紛れもない、丸井の姿だった。
は、恐怖のあまりに喉を引き攣らせる。
ずっと、ずっと、だけを見てる。ずっと、ずっと――――
「ズット、ズットナ――――」
「・・・・・いやああああっ!!!!」
まどろみの中にいたは一気に覚醒した。
腕を精一杯突っ張ってブン太との距離をとろうとするが、男と女の力の差では敵わない。
ブン太はの手を掴むと、逆に引き寄せた。愛しそうに己の腕の中に閉じ込める。
「・・・・・・・」
「い、いやっ・・・はなして・・・っ!!」
「と俺の仲だろぃ?」
内緒ごとをするように声のトーンを落としてそっと耳元で囁く。
だがそれも今のには恐怖を煽るものにしかならない。
「な、なんで・・っ・・なんでいるの・・・!?」
そう。真夜中の自分の部屋。いるはずもない丸井がいる。
その事がを混乱させていた。
丸井は怯えた目で見るを不思議そうに見返して首を傾げるとさも当然のように恐ろしい事を口にする。
「毎晩俺はここにいたぜぃ?」
「!!!!?」
「ずっと、ずっとを見守ってたけど」
全身が鉛のように重くなったように感じた。
は呆然と丸井を見た。
――毎晩感じていた視線なようなものは・・・まさか・・・・
自然と唇が震える。
恐怖のあまり声をだすのも精一杯で、はごくりと喉を鳴らす。
全身から冷や汗が吹き出そうだった。震える手でゆっくりと丸井の肩を掴む。
「・・・ど、どうやって・・・ここに・・・」
「ああ」
の態度に気にしていないのか丸井は平然とした態度で答える。
制服のポケットからあるものを取り出したとき、今度こそは凍りついた。
「これで入ってたんだぜぃ」
「・・そ、れ・・・っ」
目の前にちらつく銀色のソレは、の部屋の合鍵だった。
いつ、どこで、作ったの。なんのために。
聞きたい事はたくさんあったが、それを口に出して言う事は出来ない。
無言になってしまったを愛しげに抱きしめると、丸井はうっとりと誰もが聞き惚れてしまうような、低くなまめかしい声で囁いた。
「これからも毎晩来るから安心しろぃ?」
ぼんやりとした頭ではそれを聞いていた。
朦 朧
2009.3.5